Chapter01


--- 小林さんの家は代々紙漉きをしていたんですか?

うちの「孫四郎」(以下屋号)家は自分から本業の紙漉きになったんだけど、自分の親父、栄一が冬場だけやる4代目。
それから3代目が末代吉。
上が益太郎。このじいさんは見てくれとか色々やってる事が俺に似ていたらしい。
さらにその上の与吉じいさんが紙漉きをやってるのをみんなが確認してるから、それからすると5代目だろうと。

その上の定吉じいさんはやっていたかやっていないかは確認できない。そこから先はもうわからない。
その与吉じいさんは安政4年の生まれだからそのじいさんが若い頃から始めたとすれば、明治の初期から始めてるであろうから100年は超えているということになるね。

---- 門出では他の家も冬場は紙漉きをしていたんですか?

この辺りで紙漉きをやっていたのは、小学校の頃だと中ノ坪に2軒。「長蔵(ちょうぞう)」さん、「深田(ふけだ)」さん。
門出がうちとうちの隣の「甚六(じんろく)」さん。それから倉下のお袋の実家である「北屋(きたや)」、それから「新屋(あたしゃ)」さん。
だから記憶の中では6軒。

その人たちが秋に自分たちが栽培してるものの他に、楮の買い付けをするんだよ。
昔は高柳の岡田とか白倉とか荻ノ島、漆島、それから塩沢とか、かつては紙漉きをしていたんだろうけども紙漉きはやめて、楮だけ栽培している農家が何軒かあったんだよ。
その楮をオート3輪みたいな1トン車くらいの車でずーっと鯖石川沿いにつけてきて門出に原木をおろす。
それで紙をやっている人たちが集まってサオ計りで目方を計って、それぞれの人たちがうちは何貫目欲しいと分けたんだそうなんだけど、その分ける相談をいつも我が家で11月の頭かそこらに集まって、囲炉裏を囲んで相談している風景が自分の記憶のなかにあるんだよ。
それが小学校の高学年の頃だろうから、その頃は6軒がやってたんだね。

中学生の頃は中ノ坪の「長蔵」とうちの「孫四郎」と隣の「甚六」の3軒。
それから紙を志す高校2年の頃には、うちと「甚六」さんだけになった。
でも「甚六」さんも自分が紙漉きを始めたときにやめたんだよ。
だから高校卒業直前に紙をやっているのはうち1軒になった。

その中ノ坪の「長蔵」の小林善太郎というじいさんが歩留まりの良い紙を作る名人で、なかなか頭も良いし仕事もできるじいさんだったんだよ。
そのじいさんが80歳代後半の頃に自分が聞き取りをしたことがあって、それがテープに残ってて1時間半ぐらいあるんだけど。
「門出で紙漉きが何軒やっていたか頭の中で拾いだしてくれ」と言って、「かみや」がやってた「とうすけ」がやってたとか言いながら数えていくと、25、6軒拾いだしたんだよ。
それにそのじいさんがわからない部分も含めると30~35軒ぐらいを自分は想像してるんだけど、
門出で全盛期、昭和の初期、あるいは大正に入るかもしれないけど、それぐらいはやっていたんだろうね。
その頃、門出全体では200軒くらいの家があったんだと思う。


---- その頃楮について

塩沢の楮は非常に品質が良くて、小国紙をやっていた旧小国町山野田と門出とどっちがその塩沢の楮を買い占めるでかち合ったそうだ。
塩沢の楮の質が良いっていうのは繊維が細かくて揃っていたということだと思う。
あと漆島の楮も良いと言われていたね。
楮というのは気候風土も大きな要因にもなるが、最終的にはそこの土質、土だと思うんだよね。
だから山野田集落の人たちもそこから楮を買っていくんだよ。

でも当時、山野田集落の手前3キロぐらいの大沢という集落から山野田まではリアカーがやっと通れるぐらいで。
山野田のすぐ近く7、800メートルぐらいは人が通るだけでもやっとな道で、そうするとそこからは楮を女、子どもも含めて集落全員が背中でしょい出すそうだ。
楮を横にすると斜面にぶつかるから、縦積みで全員で背中に背負ってね。

恩師の木我さんが「その当時、数100メートルにも、人、人、人で連なった姿が忘れられない」と言ってたのを聞いて、その頃の光景を今でも自分は想像して、山野田の入り口の今はカーブになっている場所に立ち止まって眺めてみるんだよね。

自分が中学の頃には、高柳町の岡田と漆島、荻ノ島の3集落にはまだ楮を作る人がいて、その楮を買うのはすでにうちだけだったんだよ。
親父は出稼ぎに出ていて、リアカーでお袋と2人で岡田まで行って楮を載せて帰ってくる。
でも帰ってくる途中にみぞれと遭遇するのが何回かあって、リアカーの鉄の部分が非常に冷やっこくて触れないから、腹でおしつけながら、お袋が後ろのほうから手で押してくれてという光景がその当時の思い出として残っているね。

---- 当時はどういう紙を漉いていたんですか?

その頃、漉かれていた紙というのは伊沢紙。
寸法が1尺×1尺4寸。今で言うA3の大きさで、これが主力。主に唐傘の紙に使われていた。
単位が400枚を1束。40を1帖。1束の重さが唐傘のときは550匁ぐらいを基本にしてたから今の菊判換算だと6匁ぐらいの紙かな。
唐傘だから厚すぎると油を食い過ぎるし、薄いと強度に問題がある。
でも自分が中学生の頃にはもう唐傘の需要はなくなってたんだよ。

唐傘は門出に「つえ」という傘屋があった。それはたぶんどこの集落にも傘屋とか鍛冶屋とか麹屋とか紺屋とかあったと思う。
自分の頃は唐傘ではなくコウモリ傘と称して洋傘になってたけども。
今みたいに使い捨てじゃないから壊れたりするとそこへ持っていって直してもらって使ってたね。

新潟県の白根で大凧を上げるところがあって、それは伊沢紙をほぼ1束、正確には360枚使うらしいんだ。
その伊沢紙を貼り合わせて凧にしていくんだけど、紙を断裁して貼り合わせると貼ったところがはがれちゃう。
でも端っこを切らない耳という部分があると、破けても耳がそのはがれを防止して破けが広がっていかないということで、小判の耳付きの紙が重宝されたみたいなんだね。

三条今町の凧合戦は厚い紙を使って畳6畳ぐらいで、それは動きも早い。紙も厚くて大きいのを使う。
しかし白根のはあまりにも大きな凧だから目方はあまりかけたくないという事情があって、その小さい紙を貼り合わせ、貼り合わせたところが重なる。
これが強度をつけるいわゆる骨になるんだね。だから目方を薄くするんだけど、いっぱい貼り合わせる継ぎ目のところが強度を持たせていると。
そういうやりかたで耳付きは、はがれにくいという特徴として使われていたんだよ。

その時代になると紙の重さは620匁ぐらいになってくる。要するに唐傘の紙よりも厚くなきゃいけないから。
自分が知ってる伊沢紙はその620匁ぐらいが記憶にあるから、今も伊沢紙というと菊判換算で6.7匁ぐらいになってる。
今は伊沢紙は木版だとか画材用にほとんど使われてるので、まあ大体7匁ぐらいを基準とするようにしている。

小国紙は伊沢紙に比べて薄いんだよ。目方が1束330匁と伊沢の半分。
伊沢紙は加工用に使われたのに対して、小国半紙は障子と大福帳とかに主に使われた。
でも薄いから原料費が高く買えるというか、伊沢に比べると有利な商品だったと思うんだよ。
伊沢に比べると、ちり拾いとかして上質な紙だからね。

---- 新潟県内で紙漉きが盛んだったところはどこですか

新潟県で一番紙漉きが多かったのは三条下田村、加茂七谷、五泉の村松あたりだと思う。
今の下田村とか加茂、技術的なもので一番近代化されたのも加茂だと思う。良い意味でも悪い意味でも。
例えば漂白剤を使うとか、鉄板乾燥を使うとか、当時としては最新の技術が加茂から始まって小国や他の産地はそれを真似した。
村松辺りが紙を漉く人の人数は多かっただろうね。
他には湯之谷村、細々としたのはこの辺だと頸城郡松代・松之山、柏崎市高柳・大沢いたるところで漉いていたんだろうけど。

昔の文献で新潟県で一番最初に登場するのは奈良時代。その後、村松辺りに紙屋荘という紙の荘園があったであろうと推測されている。
ただ楮の分布で見るとこの辺りの刈羽郡、頸城(くびき)が意外と多く圧倒的なシェアを持っている。

だから新潟県内の紙漉きで言うと、大きく一箇所にはまとまっていないけれど、小さな枝葉になっているのが相当数あったんだろうと思う。

(上部写真/2017年2月 生紙工房にて

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