Chapter05


---- 門出和紙と名乗ったのはいつからですか?

俺は我が家の紙と木我さんの後継者でもあったから最初はずっと小国和紙の小林と名乗っていたんだよ。
だからみんな俺が小国に住んでいると思っていただろうね。
その後、今の小国和紙の片桐さんたちがうちに練習に来て始めるようになったときに、うちも小国和紙だったら具合悪いなぁと思って、じゃあ伊沢和紙に変えようかなとも思ったけど、でももし将来伊沢和紙で誰かが始めたらまた変えなきゃいけないから、変える必要のない「門出和紙」に命名した。
だからそれは随分遅くなってからで、久保田のラベルが始まった2年後くらいかな。
それまでは門出和紙という名前は存在していなかったんだよ。
紙として引き継いだのは小国紙と伊沢紙。名乗っていたのは小国紙。それから門出和紙と名乗り始めた。

---- 最初の頃は1人でやっていたんですか?

最初は1人で始めて、そのうち1人じゃ追いつかなくなってきて、当時もう60歳くらいだったんだけど親戚のとっつぁんに、外干し乾燥の板持ちなどの補助的な仕事や下仕事を56年来てもらって菊判の乾燥までやってもらった覚えがあるな
縦版乾燥機の一番古いのは阿部工業所から菊判が片面2枚ずつ貼れるやつで、裏表で4枚貼れるのを作ってもらったんだよ。
それでその原型は小国にあって鉄板のでやってたけど壊れたから、ステンレスのを作ってもらったんだよ。
22、3の頃には、西方さんという結局勤務歴30年で、10年前に65歳で退職したんだけど、
ラベルが入る前からその西方さんにうちに来て欲しいという依頼でお願いに行って手伝ってもらったんだよ。

---- 扇面(せんめん)の紙のこと

あの頃は扇型の透かしが入っている扇面の紙が売れたんだよ。
扇面というのは書道用の紙で、うちもそのつもりで作っていたけれど、使う人はランチョンマット使ったりとか色々しているんだけれど、扇面の紙が売れた。

それがなぜ売れたかというと、今はなくなってしまったけれどその頃、見附に本店がある宝翰堂(ほうかんどう)の清水さんというじいさんが、新潟県の中小企業の工芸関係をリードしていて、うちにひょっこり来たんだよ。
なんかすごい熱血じいさんで、そのじいさんの祖先は武士で、筆を作っていたらしい。

宝翰堂を作って書道用品店として全国に筆と筆に関わるものも合わせて販売していたんだ
その中にうちの和紙も販売してあげようということでうちにやってきた。
これは10年位助けてもらったんだよ。
毎月毎月、小国紙、あるいは便箋、和封筒、あるいは半六判(半紙6枚取りの大判の紙)、それと扇面の紙。
扇面の紙には俺が末広紙という名前を付けたんだけど。
うちが作っていたものを全部で12、3種類くらい買ってくれて、毎月毎月発注があったんだよね。
だから一時期はうちにとってそこが一番の販売先になるんだよね。

それである時、1ヶ月の半分くらい扇面を漉き続けなければいけないくらいの量が出たんだよね。
それで当時40歳くらいの西方のとっつぁんに来てもらって、1枚いくらとかで生産してたの。
今考えると誠に申し訳ないくらいの賃金で仕事をしてもらっていたんだよ。
毎月仕事納めの月末にうちの囲炉裏で、鼻水垂らすような寒いところで囲炉裏でもって一杯酒を飲んでもらう、給料を払うときにね。
毎月そんなことをやっていたんだけれど、西方さんは子どもを育てるのに1番お金が必要な時期だったから、「すっごく助かった」て言ってくれてね。
お互いとてもありがたかった。

---- 夜なべで紙を漉く時期

その西方さんが入ってくれた頃、地域おこしの関係で、埼玉の狭山の朝市だとかにも出かけて、色んなものに駆けずり回るのが29歳の頃かな。
東京の池袋の西武デパートの中に東利舟(あづまりしゅう)という人形師がアール工房という名前で和紙の販売を始めたんだよ。
それでそのアール工房がうちの罫線の入った便箋カードだとか、俺が草木染めで染めた便箋だとかを主力で販売してくれた。
渋谷と池袋の西武デパートで販売してくれたんだね。
これも不思議な因縁なんだけどそのアール工房の事務所が池袋の河合ビルにあって実は今、そこが朝日酒造の東京支店になっているんだよ。

その時、俺は地域おこしの関係でバタバタしていた上に、スタッフもいないから納品がなかなかできない。
また昭和58年の年は俺は町会議員もやっていたり、農協の理事をやったり、とにかく昼の会合が多いんだよ。
俺みたいな自由業は村のポンプ当番までなんでもさせられるし、嫌って言えない性格だからどんどん役職が増えていって、1日の半分くらいはそういう仕事で埋まっちゃってさ。
夜の会合もあったりして、だから夜の10時前までに家に帰った時はそこから紙を漉いたりしていたね。
だから夜なべで紙漉きをするような生活がその頃は当たり前に続いていたんだ。

---- 久保田のラベルが始まる

昭和60年、俺が31歳になった年に、朝日酒造の平澤亨さんが2月頃、久保田という酒を作りたいという話で工房に来た。
そのときにイズハ・ニューマンというイスラエルから来たのが3月に入り、11月の楮刈りまでうちに居候していた。
だから7月頃になるとイズハもラベルを漉いてたんだよ。
その時のラベルは今見たら厚さも不揃いだったし、耳も全然決まっていない超迫力のある紙だった。
でも平澤さんが「俺はこの耳が好きだから、このままでいけ」とか言ってくれて、手漉きに合わせたことをしてくれた。
それにその頃はまだ瓶にラベルを手貼りしていたから大丈夫だったんだよ。

次の年の昭和61年1月に仙三くん、4月から政子さんが入って来た。
だからその時、スタッフは俺と西方さん、仙三くんと政子さんだけだった。
久保田のラベルは月に8000本から始まって、20000本になるのに4、5年かかってその後5~60000本に増えていくんだよ。
それでスタッフが全然足りなくなっていってそれから工房の規模拡大と、スタッフの増員がずっと続いてくるんだよね。

---- これまでのラベルについて

最初のラベルは2層で1枚2グラムだったんだよ。
ラベルを瓶に機械で貼るようになってからはそれだと固すぎて糊が剥がれてしまって貼りにくいから1.8gに修正した。そして今は1.6gに修正してと、3段階に分けて修正していった経緯があるんだよ。
それは最初、平澤さんが「厚くて重厚感がある紙にしてくれ」と迫力がある紙を依頼されてそういう経緯になったんだね。

久保田のラベルの話はその当時、朝日酒造の工場長が小国の出身の人で、小国の中村英一さんの所に行ったらしいんだよ。
でも中村さんの所はそんな量は出来ないといって断って、しかもその時は今の小国和紙生産組合も誕生していなかったしね。
それでうちに来たっていうことらしいんだよ。
でも当時、県内で紙漉きやっててそこそこの規模の所っていうと、そんなに多くはなくて、川上村の伊藤さんの所と、湯之谷の遠藤さんと、うちくらいだったからね。

でも後で聞いたら色んなつながりもあったのかも知れないね。
日本容器の渡辺会長は代々朝日酒造と付き合いがある方なんだけれど、その人は長岡科学技術大学との関わりもあって、そこの初代学長の川上さんという人が非常に郷土性を重んじる方で、賞状の紙も全て地元の紙でやりたいと言って、田村商店がうちに相談に来られた。
で、そこの賞状もうちが作ることになるんだよ。
久保田のラベルが始まる前の、もう40年近く前の話だけどね。

(上部写真/現在の久保田ラベル

CONVERSATION

Translate