Chapter11



古田さんについて


美濃で紙漉きの道具を作る古田あやめさんが今年の2月に亡くなったそうなんだよ。
俺はそれ知らなくて、長男の方から連絡があって知ったんだけど、それで古田さん一族にこれまでお世話になった経緯と感謝を手紙に書いて送ったんだよ。

うちの親父が10年間出稼ぎに行ってたとき最後が愛知県のトヨタ系の部品を作るところに6年くらい行ってた。
そのとき愛知で日展見に行ったときに小原工芸和紙の作品に感動して、小川喜数先生を訪ねたんだよ。
それで4、5年、休日の度に行ってはちょっとした弟子入りみたいなことをやっていた。
しばらくデッサンやりなさいとか言われて1年目はほとんどデッサンやってて、2年目からは少し紙のこともやらせてもらったみたいなんだ。
俺が中学生の頃だから昭和45、6年の頃だね。

その頃、小国で漉簀を茅ひごで作ってたひとが辞めちゃったから、それでやむなく親父は美濃の古田さんのところに行った。
美濃紙をやっていた古田行三さん、さよ子さんが紙漉きでは有名だけど、簀編みのほうはその弟夫婦の古田要三さん、あやめさんがやっていて、どちらにもお世話になったんだよ。
最初にお世話になったのが要三さん夫婦で、伊沢紙の簀を依頼するんだけど、その時点では茅ひごはできないと言われて竹ひごに変わってたけど作ってもらった。
それから親父が紙漉きをして俺が高校を出てから出稼ぎに3年間行く。
1年目は大阪で、2年目の愛知県に行ってたときだから俺が19か20歳のとき、親父から電話があってトロロアオイを腐らせてしまって足りないから美濃に行って買って来てほしいと言われた。
それが古田さんを訪ねた最初だね。
出稼ぎ先の愛知県から岐阜の美濃へ行った。
そのときの古田要三さんとの電話のやりとりを今でも覚えている。
「美濃駅からバスで洞戸行きのバスに乗って蕨というところの郵便局前で降りると、その前に我が家があるから」と言われた。
「洞戸のほらは、ホラを吹くのホラ」と付け加えていたね。
行く途中に岐阜駅で持っていくお菓子を買ったのも覚えているね。
最初1000円のお菓子を手に持ってしばらく考えて、金が無いのに気づいて500円のお菓子を2つに変えて、要三さんと行三さんに持って行ったんだよ。
その頃の自分の経済状況があったから仕方ないけど、すごく恥ずかしい気分だった。

それでちょうどお昼前に着いちゃって、あやめさんが何も無いけどとか言って、めざしが焼かれたのと漬物とかご飯とか出して頂いてお昼をご馳走になったんだよ。
それから行三さんのところを紹介してもらって行った。
その時はまだ行三さんのおじいさんが生きてらっしゃって、ちょうど紙を乾燥するために家の中で板に紙を貼っていた。
おじいさんはとにかく美濃紙が一番だと言っていたのを覚えている。
美濃紙に誇りを持っておられた。
そして行三さんにトロロアオイを分けてもらったんだよ。
トロロアオイ自体はそんなに高くはないんだけど、「クレゾールで2回漬けてるからそのクレゾール代が高くついてしまって申し訳ないのう」とか言っていたね。
美濃はクレゾール13倍で漬けてたから当時は高いなあと思う値段ではあったけど、後になると自分でもその値段がよくわかるようになるね。
そのトロロアオイを何キロだか分けてもらったのが1回目に行ったとき。

それで2回目は行三さんの漉き場をしっかり見学するために行ったんだよ。
あそこはすごく夫婦のコンビネーションが良くて奥さんのさよ子さんも漉く名人なんだよ。
そのとき選別は行三さんがやっていてちょっとでも駄目な紙は除けてたね。
映像撮るひとだとか写真家の大堀一彦さんとも行三さんの家行ったけど、撮ったフィルムを後から見直すと、さよ子さんの漉き方はどれも全く寸分の狂いが無い漉き方だったと言っていたね。
あと川晒しでかごを背負って川で楮の皮を並べたりするのを見させてもらったり、行三さんがいろいろの仕事を見せてくださった。

それからしばらくして門出和紙工房スタッフの見学で美濃に10何人で行った。
要三さんが漁師になって俺達の全員分の竿からおとり鮎から全部用意してくれて、釣り方も教えてくれたんだよ。
それで緑風荘で夕飯を食べたんだけど我々のために1日色々案内してくれたりした。
それから度々美濃を訪れたら顔を出したり、こっちで餅搗けば餅送るとか付き合いをさせて頂いた。
紙漉きの自分にとっては、道具や原料を作る川上のほうが神様だと思ってるから、非常に尊敬していたんだよ。

(上部画像/旧古田行三邸仕事場※下記引用)
美濃手すき和紙の家旧古田行三邸
http://www.mino-city.jp/jp/tourist/construction21.html

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