Chapter12



山口家について


全国手漉き和紙連合会の山梨大会のときに自分が21歳ぐらいのときかな。
柳橋眞先生が来賓の方がいる部屋へ私を連れて行ってくれたんだよ。
「これは新潟の青年で熱意を持ってるから以降お見知りおきください」と来賓の方に紹介してくれた。
そしたらそこにいた横浜の森木紙店の森木安美さんが「そうか」と、その脇に息子さんの伸二さんが居て、「うちの倉庫に使ってない半紙が6枚取れる漉き簀があるだろ。あれを送ってやりなさい」ということを仰った。
森木安美さんは知識人でもあった方で、誰もが特別に先生と呼んでいた。
当時、全国手漉き和紙連合会の東日本ブロックに属していたんだけど、年1回会合があると来賓で来るのが森木安美さんだったんだよ。
いつもピカピカの靴を履いて、日本人離れをしたジェントルマン。

それから2、3週間くらいしたら1回も使ってない絹糸で編まれた簀を送ってくれた。
それでそれに合う桁を古田要三さんに作ってもらって、漉いてみたら簀の糸が切れちゃうんだよ。
要するに50年くらい前の簀だったから、ひごはしっかりしてたんだけど糸は弱くなってたんだよ。
それで古田あやめさんに編み直してもらって、それは今もうちで半六判として残っている。
非常に簀の目が細かくて1寸あたり通常は30本とかそのぐらいだけど、その簀は40本近くひごが入ってるんじゃないかな。
美濃で一番細かいのが62本だと聞いたことがあるけど。
古田あやめさんが「これは紗を引かなくても雁皮を漉けるから」と言ってたから非常に目の細かい簀を頂いたんだね。
その後、先生を訪ねたときに夕食にカツオのたたきを食べながら自分の生い立ちや苦しい生活の話をされて初めてこんな話をしたと仰った。

それから俺が26歳の時、我が家に電話があった。
森木先生も当時80歳を過ぎていたけど、自分が子供のときにすごくかわいがってくれた久松家の叔父になるひとが、自分が小さい時に新潟県のあるところで紙漉きの指導をしたというのを聞いたことがあると。
そこには駅からソリで行ったと話を聞いたんだけど、それが新潟県のどこなのか調べてもらえないかという電話をもらった。

それで川上村役場から順番に紙漉きやっていた産地に連絡していったんだよ。
そうしたら感覚的に長岡市小国町の旧家山口家が一番可能性が高いと感じた。
それで山口家に訪ねて行ったときに岩野さんと山崎さんという方が対応してくれて、その時代だと山口権三郎の時代ですねとか言って、書庫からその権三郎さんの仕事の記録の本を出してくれた。
その記録の中に「小国紙の改良について」というのが半ページだけあった。
そしてそこに「明治24年久松儀なる者招聘し」と書いてあったからこれだと思った。

それとそのとき「私どもの土蔵のなかに古い道具が新聞紙にくるまれてあるけど見ますか」と仰るので見せてもらった。
30本以上も新聞紙にくるまれた簀があって1本だけ見たんだけど、これはすぐに調査できる代物じゃないので後日スケールとか持って来ます、と言って出直した。
それで1本1本寸法計って1寸あたり何本ひごが入ってるかとか、親木(おやぎ・おやば/簀の上下にある部分)がどうなってるとか記録していったんだよ。
不思議なのが今は絹糸使ってるけど昔は竹ひごなのに馬の尻尾の毛で簀を編んであるんだよ。
つまり茅ひごの名残りがそのなかにあった。
今は節は全部取ってあるけど、そのなかには節が全部取ってあるひごもあったし、残っているのもあったし、1部分だけ連なって節が残っているのもあって、実におもしろいと思った。
つまり日本製紙論を書いた吉井源太が試行錯誤をしているときの道具だったんだよ。

その後高知のほうでも、山口権三郎と吉井源太の手紙など小野さんが調査してくれて、吉井源太の日記を読み込んでいくと当時、吉井源太が開発した道具を全国に使ってもらうために紙漉きの技師を8人だか9人だか全国に送り込んだんだよ。
紙漉きの技術を広めようと道具とそれを使える技師を。
ちょうどそのとき新潟の時の山口権三郎は、小国紙の単判を改良しようと調べて全国回っていた。
それで高知を訪ねたときにここが良いだろうと思ったんだろうね。
当時の最先端の改良紙を高知はやっていたからね。
それで吉井源太と契約をする。
その契約の内容が、楮が何貫、ソーダ灰何貫、苛性ソーダ何貫、漂白するための粉末状の次亜塩素がいくらとか、全部記載が残っているんだよ。
感動するのは荷物の住所宛先が墨字で表書きされたのも残っているからね。
新潟港に着いて信濃川で長岡に行ってそれから渋海川で小国に来てるんだけど、その表書きの板も、そのときの運賃がいくらだとかも全部残っている。
あと驚いたのは1年半赴任する技師に、当時の女中を雇うお金の20倍の給料払っているんだよね。
今から130年ぐらいも前の話だけど。
それで小国に久松儀平を最初に呼ぶ。
ところが契約の途中、50歳ちょっとで小国で病気で亡くなるんだよ。
それでその息子の久松林之助が後を継いで残りの7ヶ月とかを遂行するために小国へ来て紙漉きの指導をしたんだ。
その久松林之助が森木先生を子供のころ面倒見てくれたという人だったんだよ。

その久松林之助が小国で教えたのが11人いて、そのうち8人が小国の人で残りのひとは他の紙の産地からも来ているんだよ。
そこで改良抄紙伝習所として山口家の脇に小屋を作って指導していた。
そのとき漉いたのはほとんど図引きの紙なんだよね。
設計図を書くような、それに対応する薄い紙を漉いていた。
寸法もそれに対応したうちの半六判(115cm×59cm)に近い紙だった。
そういう紙を作ろうとしたけど結果的にそれはあまり成功しなくて、その道具はそこにお蔵入りとなった。

そこで当時漉かれた紙は何枚か残っていたから、その中の1枚をもらって森木先生のとこに送って、それが久松林之助の息子の久松林さんのところにも届いた。
そしたら、先祖が漉いた紙が手元届いてすごく嬉しいとお手紙を頂いたんだよ。
その当時俺が26歳のときで久松林さんが67歳だった。
その報告書をまとめて、柳橋先生と森木先生のとこに送って、そういうのが小国町や山口家もこれは貴重な資料だということで、その後それが博物館という形で公開するようになったんだよ。

(上部画像/山口家小国和紙館※下記引用)
山口家小国和紙館

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