Chapter14



旅のこと人生のこと


20歳の時に沖縄で海洋博(1975年沖縄国際海洋博覧会)があって、沖縄へ1週間以上いたんだよ。
座間味島とかあっちこっちの島でぼけーっとする旅をしたいと思って。
大阪から丸2日間黒潮丸に乗って行ったんだけど、船酔いがすごくて帰りは飛行機にしようと。
飛行機が那覇からのが取れなかったから奄美大島からのを取って、奄美大島まではクイーンコーラルで行って、あの頃テントも持ってなくて1坪のシートにくるまったり、飯盒(はんごう)とか背負って自炊をしたり民宿にも泊まったりしながら旅をしたんだよ。
那覇港でもダンボールで1晩寝たけど、そういう旅がすごく好きなんだよ。

なぜ好きかと言うと、自分でも変わってると思うけど、小学校の頃から人がうっとおしいと思うことがあってね。
夏はお墓でも寝たことがあった。
とにかく1人になるとニタニタと嬉しくなるようなところがあって。
こういうのは誰にでもあると思うけど、かなり人よりはそれが強かったと見えて、時々人のいないところに行ってインスタントラーメンなんかを空き缶で炊いて食うとかしてたんだよ。
人のいないところなら距離はどこでもいいんだよ。
とにかく人が絶対来ないような場所だったらそこでそうやって食って、しばらくノターっとするのがすごく好きなんだ。

沖縄の旅もその延長線上で人のいないようなところに寝泊まりして飯を食うみたいのをやってた。
でもその時はこれから紙漉きの仕事をやっていかないといけないから、こんなことはしばらくはやってられないと、60歳までは旅はいったんお預けにして、紙の仕事に一生懸命集中して60歳になったら乞食旅をしようと固く自分のなかで決めた。
決めたことだからそれからも60歳になったら漠然とそうしようと思ってきたの。
それは今でも思ってるとこはあるんだけど。
自分の中でそれに一区切り付けたかったから一昨年2015年の10月にイスラエルへ行ったんだよ。
どこかで引退したときに1ヶ月くらいはいったんゼロに切り替えるために旅がしたかった。
しかし1人ではなく女房と生真(末っ子)だけがまだ海外に連れて行ってなかったから3人で行ったの。
2週間の旅ではあったけどそれがささやかな抵抗というかな。

そういう旅や人のいないところに行くのは、自分を取り戻すというかな。
後で知ったんだけどアタラクシアとかいって哲学用語で、誰しもそういう心理があるんだそうだ。
何にもない状態を自分が求める。
本当は人がたくさんいたり人の前で話したりするのは得意じゃないし、どちらかと言うと嫌なの。
だけどこれまで幸いにも紙の仕事や地域おこしの仲間たち大勢と関わって、人と人とが心を通わせたりするのもなかなか面白いなぁと気付かされた経験が積み重なったから、人付き合いもできる人間にはなってるけど。
本当はなんにもないぼけーっとすることが一番落ち着くんだよね。
だから普段も女房とべらべら会話するのもあまり好きじゃないんだよ。
だけど隣にただいてお互いがちょっぴり会話するくらいがすごくいい感じでさ。

何かがすごくできる人とすごくできない人は裏返しの才能と考えるようになってきた。
例えばすごくできない人を見てて歯がゆくてしょうがないけれども、できない部分がどこかに才能として、人を尊敬できる心とか、裏返しにどこかに詰まるはずだから。
そういうふうに相対的に考えられる年になった。
できなかったらできないなりのそれも才能だと。
万事に対して決めつけない癖がついてきて、この頃は素直にそうだと感じるようになってきた。

40歳くらいの時は紙漉き20周年記念の時は展示をしようとか節目節目の記念みたいのも考えていた。
50歳くらいまでは自分が紙をやめるときには総決算となるような展示会をやって、自分の達成感みたいのを味わいながらケリをつけようとか思ってたんだよ。
でもこの5、6年ぐらいでそんなことどうでもいいじゃないかと思うようになった。
ところがそのぐらいの年齢に近づいてきたらそれが一体なんなんだと(笑)
そんなの自分が満足するだけの話だなという感じで、そんな記念的なものなんか無いほうがもっと尊いような気がしてきたんだよ。

例えばオリンピックで金メダルを取ったときの喜びは、動的な興奮としての喜びはあるけれども、本当の豊かなじんわりとした喜びを感じるのは引退して記憶の中のひとつひとつをたぐりよせ、苦しかったことなんかの情景を蘇らせたときに芯から喜びを感じるのではないのかな。
その喜びの方が大きいかもしれない。
人生っていうのは、年をとった時が面白いとつくづく思うんだよ。
若い頃と違って記憶もいっぱいポケットを増やしているし、重くなっているからね。

この冬、関東のほうに行ってて天気もちょうど晴れてきたんだけど、なんとなく殺伐とした風景に感じて、これが冬の間、春までこんな景色のままだと味気ないなぁと見ていたんだよ。
東京生まれの女房ともこっちで毎日毎日毎分毎分ダイナミックに移り変わる景色を見ているほうがすごい豊かだねと話していたんだけど。
せつない(つらい)とか難儀とかは、喜びもその裏返しになっているからね。
生紙工房の横にあるネムの木だとかナラの木が雪に傷めつけられて曲がっているんだけど、春先になって葉をつけると「お前もこの前の大雪に折れないで今日の日をよく迎えられたね」と会話したりするんだよ。
都会の人が来て自然が綺麗と言うけれど、俺たちは美しいと心がえぐられるというか、つまり記憶の力、過去の雪の酷い目にあっている情景があってその若葉を見ているから、まるで感動が違うわけだよ。
だから深い感動をするにはその反動もあるわけだから、 深い人生を味わうのにはその反動が大事だと思うんだよね。

今生きてる人でもこのままでいいんだろうかと思って暮らしている人はいっぱいいるんだろうね。
俺たちの世代までは志を持ってそれになんとか向かっていこうと思う人が多かったけども、今はそもそも志を立てないんだよね。
俺が20歳ぐらいだから今から40年前ぐらいのことで憶えているのは、なんかプレゼントもらったときに「思いの込もったものもらうと大変よね」と言われたんだよ。
そういうのを面倒だと考える人が今から40年も前から存在していたんだと考えてみると、今はそういうのを面倒臭いと考える人が主流になっちゃったのはなんか淋しい感じがするね。

(上部写真/門出の棚田風景)

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