Chapter18


昭和60年のこと


昭和60年というのは今考えるとすごい年だったんだよ。
昭和59年の狭山の朝市から始まって60年に西武の101村展。

3月にイスラエルのイズハルが弟子に入ってきて、朝日酒造の久保田のラベル作りが春から始まる。
5月からはかやぶきの家(現おやけ棟)の修復が本格的に始まり、ほぼ毎日曜日は仲間たちと工事。その工事の中で仲間はどんどん増えて20人くらいになってくる。

そしてその年の秋に仙三君(現門出和紙親方)がうちに来たいということで、見学というか面接に訪れた。
仙三君は、群馬のお兄さんが勤めている会社のつながりの中で、型絵染の人間国宝芹沢銈介さんのところにいたんだけど先生が亡くなって解散になったから、高崎でダルマの絵描いてるのもなんだしねえみたいな話があって、小林さんのとこで紙の仕事一緒にさせてもらえないかという話がその間に入った人からあって、それでまあ来てくださいとなったのが11月。

女房に初めて会ったのもその年の11月3日なんだよ。
そのときイズハルがいてつっかけ履いて板畑の小川山荘に行った。
持ち主の小川正敏さんが、姪である紀久子と自分を会わせたいとのこと。
11月の2週間後か3週間後に女房がうちに遊びに来たんだよ。
その日、正志はかやぶき(現かやぶきの里おやけ)の家のなかの修復をしていて、俺と幸多朗は栃ケ原ダム方面にかや刈りに行ったんだよ。
紀久子はまんま作りでかやぶきにいて正志さんと一緒だった。
それで正志さんがすっかりこの子はいい子だと思ったみたい。
その後、正志の家で水曜会やったときに版画家の野中光正さんがたまたま楮切りで来てて、俺と幸多朗と正志と野中さんと4人だったかな。

そうしたら正志が冒頭に「お前があの子をもらわなければ俺は明日から挨拶もしない。もう金輪際仲間を打ち切る」というような言い方をしてきて「絶対嫁にもらえ」と。
横にいた野中さんは「そういうのは康生が決めることだ」とか言うと、「うるさいお前は黙ってろ」とか言われて(笑)
もう正志は受け付けないみたいな感じになって喧嘩別れをした。
嫁もらうもらわないは自分が決める、人の懐まで土足で上がり込んで命令してくるとはいくら友人の正志でも許せないと家に帰りさっさと寝た。
自分の想うように生きたいから被害者は両親に留めておくほうがいいに決まっていると。
でも驚いたことにまだ日の出前の早朝、枕元の暗闇に幸多朗がいるではないか。
たぶん今さっきまで正志と話し込んでいたのであろう。
酔っているはずの彼が「結婚は諦めのような、悟りのような…」
訳のわかったようなわからないようなことをごとごと言って、最後に「康、きっと結婚したほうがいいよ」と言ったんだ。

そんなことがあって12月8日に腹を決めて結婚しようと。
まだ会って1ヶ月くらいだね。
それで東京に行って「うちには80歳を越えた耄碌爺さんがいて、雪が4メートルも降って、借金は結構あってこれからもするし、金は貯めてもらいたくないし」みたいな話して(笑)
それでも構いませんという。
そちらが構わなければ私も構いませんと、それで結婚することになった。

それで翌年昭和61年1月5日に結納。
正志さんが行李柳を持って幸多朗と3人で行った。
ところが翌日1月6日に大爺さんが亡くなってしまって8日が葬式になった。
だから結納が1日早かったばかりに女房を親戚に披露するのが葬式になった。

紀久子の誕生日の2月11日は佐渡に2人で行って、結婚式のときの記念品を本間工芸で竹で作ったアジロに編んだ文箱に我が家の和紙に柿渋を塗って内側に貼ってもらいたいとお願いに伺った。
それと便箋だとか和紙のセットを色々入れて引き出物にしたんだけど。
後で感動したのが朝日酒造の亡くなられた会長の平澤さんの家に伺った時、もう30年近くも経つのにそれが机の脇に置いてあったんだよ。
俺は自分のでさえもどこいったのかわからなくなってるのに(笑)
それをまだ大切に使ってらしたのでありがたいなと思った。

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